1965(昭和40年)/7/10公開
配給:松竹 製作:松竹株式会社
中田耕治の原作を福田善之が脚色、篠田正浩が監督した忍者もの。撮影は小杉正雄が担当している。
本ページでは一部にWebサイト上では表記できない文字があるため、代用文字に置き換えております。正式文字は「代用表記一覧」ページにてご確認ください。
関ケ原合戦後、徳川と豊臣は対立。乱波、忍者が入り乱れ攻防戦は熾烈を極めていた。徳川方隠密の総帥は郡山帯刀と高谷左近、豊臣方は是村童之と野尻鷹之介であった。信濃路で関ケ原浪人稲村光秋に会った佐助は、光秋が徳川方の総帥郡山帯刀が、豊臣方に寝がえる手引きをしていることを知り、また、両派の忍者が暗躍する諏訪城を無事通過するため、切支丹小林弥四郎を、諏訪奉行久仁玄蕃に売ったことも聞いた。東餅屋の宿場で捕えられた弥四郎の一行に会った佐助と光秋は、弥四郎を人かげから火のような眼差しで瞶める男甚内と、美しい女お喜和の姿を見た。宿場で高谷左近一味に襲われながら、諏訪の大畑屋に泊った佐助は、十七、八の娘お美代に常真寺に来るよう耳うちされた。一方光秋は、佐助の入浴中釘を額にうたれ殺害されていた。宿の騒動をのがれて逃げる途中、佐助はお喜和と再会した。喜和は女間者であった。約束の常真寺に行った佐助は、大阪方の是村重之が、帯刀の行方について、会見を申しこんでいる旨を知った。宿小池屋に戻った佐助は、喜和の惨殺された姿を見た。側に立つ白装束の左近は、佐助に帯刀の身柄を申し受けたいと迫った。だが隙を見てのがれた佐助は、玄蕃の輩下に襲われ、堀川和孝の屋敷に救け出されていた。かつて東餅屋で見た甚内こそ、和孝であった。そして和孝は、徳川方に味方する玄蕃に反し、家老の身で豊臣方についていた…。