1996(平成8年)/10/19公開 112分 カラー ビスタ 映倫番号:114842
配給:東映 製作:「わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語」製作委員会
自然と宇宙を愛し、人間の幸福を見つめ続けた宮沢賢治、その生誕100年を記念して37年の生涯を描いた伝記映画。
アニメとCG合成を巧みに用いて、賢治童話のもつ豊かなイメージを美しい映像の中に描き出した。今もなお輝き続ける賢治の世界を映像で体感できるファンタジーあふれる作品。
盛岡高等農学校を卒業したばかりの賢治は、やたら夢や理想が大きく、家業である質屋・古着商を毛嫌いし、信仰をめぐって父親の政次郎と激しく対立、幾度となく衝突をくり返していた。
この頃の賢治は、親友の保阪嘉内と同人誌“アザリア”を発行し、創作を始めていたが、日頃からの過激な言動がたたって、嘉内は学校当局から除籍処分となってしまう。
その年の暮、東京の女子大に在学中のトシが肺炎を患い、人一倍妹思いの賢治は上京し病室に付添った。病い癒えたトシは、女子大卒業と同時に、故郷・花巻女学校の教師となる。一方、賢治は徴兵検査で兵役免除の身となり、事業をめぐって政次郎とまたまた対立するのだった。
大正10年、賢治は、宗教団体“国柱会”に入信のため上京し、布教活動に打ちこみながら童話創作に精力的に取り組んでいた。
その年の夏、“トシ病気”の急報と共に、賢治は帰郷するが、やがて最愛の妹・トシは結核のため24歳という短い生涯を閉じてしまう。その悲しみに、雪の夜を狂しげに彷徨う賢治。「永訣の朝」にこめられたその悲嘆。満天の星を涙で見上げる賢治に、この時、死者と共に宇宙へ旅立つ「銀河鉄道の夜」の哀しくも美しいイメージがきらめいた。
大正13年4月に「春と修羅」、12月には童話集「注文の多い料理店」が刊行されるものの、売れ行きは散々であった。そんな時、かつての友・保阪嘉内から山梨の開拓村で理想の村づくりを始めたとの報せが入り、旧友に刺激された賢治は、自らも農民となって土に生きる決心を固めるのだった。
大正15年4月、賢治は、花巻郊外で独居自炊の農耕生活に入り、やがて羅須地人協会を発足させた。生来、頑健でない賢治は、一刻一刻を惜しむかのように、農作への努力、農民への奉仕を続ける傍ら、チェロの演奏をはじめるなど音楽や創作を通じて、嘉藤治たちとの交友をも忘れなかった。
日に日に身体が弱っていく賢治。折しも東北は、未曾有の大冷害に見舞われ、農村の荒廃は止どまることを知らなかった。
32歳で遂に重病に倒れ、自宅療養の身となった賢治は、3年後小康を得て上京するものの喀血。いよいよこれが最後と自覚し、帰郷して病床に伏しながら小さな手帳に人知れず「雨ニモマケズ」を書き記すのだった。
昭和8年9月21日、容体が急変し家族が枕元に集まると、賢治は推敲中の「グスコーブドリの伝記」など多くの原稿を父親に託し、静かに息を引き取った。こうして大きなトランクにイートハーブの夢をいっぱいつめこんで旅した賢治の37年の生涯は幕を閉じたのだった。