1971(昭和46年)/8/25公開
配給:松竹(受託配給) 製作:近代映協
昭和45年3月13日・雪の大阪千里丘陵、その日から万博閉幕の翌9月16日、無人の会場シーンまでの約180日間を、総ブロデューサー田口助太郎以下のべ18000名のスタッフにより、この世紀の祭典の記録は十万米のフィルムに定着された。
開会式における厳粛な儀式から、華やかなお祭りに転調する鮮やかな色彩。建築オリンピックといれるほど、アイデアと尖端の技術が生かされたパビリオンの群れ。万博参加では大先輩のイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国のパビリオン。スカンジナビアの国々の古い文化。そしてアメリカと人気を二分したソ連館の威容。つめかける大群集とパビリオンと華やかな花まつり、象まつり、民族舞踊、サーカスに至るまでが、肌の色、瞳の色、話し言葉の違う人達の親しい触れ合いを増し、万博ムードを盛上げる。アフリカの夜明けを体当りで表現する爆発的踊りで会場の人気をさらったアフリカの若い国々。南アジアの大国インドは世界で34頭目の白い虎と礼宮の劇的交歓で話題になった。オセアニアのニュージーランドは、羊の丸刈り実演で妙技を示す。ラテンアメリカは、ブラジルが日本人移民50万の消息を伝える。アルゼンチンのタンゴと、情熱的な瞳のホステスは人気の的になった。アングロアメリカの国々では、アメリカ館に長蛇の列が続く。たとえば何時間待とうとも、宇宙コーナーの“月の石”を、この眼で見ようとする群集。日本の企業館は、全天スクリーンのみどり館が、未来の映像革命に挑む。