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作品紹介

智恵子抄

1967(昭和42年)/6/10公開     
配給:松竹 製作:松竹株式会社

高村光太郎の詩集「智恵子抄」と佐藤春夫の「小説智恵子抄」を原作として、中村登と広瀬襄が共同でシナリオ化し、中村登が監督した文芸もの。撮影は竹村博が担当している。

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スタッフ

監督:
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音楽:
撮影:
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美術:
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ストーリー

明治44年、高村光太郎はパンの会に属し、奔放な生活を送っていたが、彼の身を案じる友人の椿夫妻の紹介で、画学生長沼智恵子と見合いした。二人の仲は急速に深まり、一年を経て二人は結婚した。光太郎は詩作に専念し、智恵子は油絵に没頭した。大正四年、智恵子は絵を文展に出したが、結果は落選だった。傷心の智恵子は光太郎と共に故郷二本松を訪れた。智恵子の父宗吉と母やすは二人を心から歓待した。二本松から帰った智恵子は絵筆を捨て、かわりに機織をはじめた。そんな頃、二本松に大火があり、父宗吉は焼死した。昭和6年、智恵子の姪ふみ子が看護婦試験に合格し、智恵子と光太郎のアトリエに寄宿していた。或る日、智恵子の実家が倒産したという知らせが届いた。智恵子は夫光太郎に事実を話さず、一人苦しんだ。そして、光太郎の留守をねらって服毒自殺をはかった。そんな智恵子を、ふみ子が発見した。病院に入れられた智恵子は一命を取りとめたが、精神に異常をきたしていた。光太郎は智恵子を、二本松、九十九里浜と転地療養に連れだした。そんななかに、光太郎の父光雲が亡くなった。智恵子の病状はいぜんとして良くならず、光太郎以外の人の見分けがつかなくなっていた。昭和13年、品川の精神病院へ入院した智恵子は、ふみ子の看護をうけていた。一日、病院を見舞った光太郎は、智恵子の切抜き絵をみて驚く。そのすばらしい造型、すぐれた色彩感覚は、狂気の人がつくったものとは思われなかった。しばらく智恵子の病院生活はつづいた。が或る夜急性肺炎となった智恵子は、かけつけた光太郎の手を握って死んでいった。

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受賞歴

毎日映画コンクール撮影賞(竹村博):毎日映画コンクール録音賞(田中俊夫):毎日映画コンクール女優主演賞(岩下志麻):キネマ旬報賞主演女優賞(岩下志麻):文部省芸術祭新人賞(竹村博)

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